5月も半ば、少し気は早いがもう少しで6月がやってくる。
今年は例年よりも暖かい日が続いたせいで、4月は桜に関係したイベントがことごとく『すかされた』なんて良く耳にした。筆者の地域でも桜まつりなるイベントが、まんまと葉桜で迎えることになったりしたのだ。
当然このまま5月も温暖な日々が続くものだと思っていたのだが、まさかの急激な温度低下となり、5月の連休は見事にその被害に遭遇。局地的とは言え、雨だけではなく、雹(ひょう)までもが降り注いだ。
北海道は5月の連休が例年桜のシーズンなのだが、どうやら桜だけではなく雨も見ながらお酒を楽しむ羽目になったようで、濡れながらも楽しいんでいる様子がニュースで流れていた。
では6月はどうなってしまうのだろうか。6月の定番と言えば梅雨だが、一体どうなってしまうのやら・・・
そんな四季の変化を毎年楽しんでほっこりしている筆者だが、同時に着実にまた1歩死期に近づいたなと、しんみりもしてしまう。
この予期せぬことが起きている今年こと2018年に、死期という終わりを考えるのも、考えてしまうのも、自分にとって何か予期せぬことが起きるという知らせなのかもしれない。
さて、予期せぬことと言えば、最近筆者は始めていることがある。
と書いたならば、恐らく読者の方々は、ジムに通って素敵な汗を流しているのではとか、はたまた、料理に目覚め料理教室で主婦達と戯(たわむ)れているのではなどと、勝手な推測をしているであろうが答えは全てNO。
気にはならないだろうが答えは簡単、そうこのブログである。実は筆者、ブログを始める気などさらさらなかったのだ。
とはいえ、筆者は書くことがわりと好きだ。それで、今となればだが、1年いや2年前になるだろうか、このブログの母体というか延長上のような、簡単に言うとブログの手伝いをしていた時期があった。
と言っても、そこに料金という報酬は発生しない。その方の名誉の為に言うが、むしろ筆者からお願いして書かせてもらったような関係なのだ。
逆にこちらがその場を与えてくれた方へ、料金を支払うべきなのではとも思うくらいなのだ。
ただ、やはり書くのが好きとは言え、容易なものではない。何よりも、そのブログの持ち主のように書かなければならないからだ。
その方のお眼鏡に叶うように書かなければならないのは当たり前だが、その方が使いやすいように、所謂ベースとしてなり得るように書かなければならないからだ。
その中でも一番気を遣うのはリズムである。文章には必ず流れがある。この流れでその人を表すと言っても過言ではない。
リズムと言われてもイマイチ分かりづらいであろうが、その1つとして語尾と表現すれば分かって頂けるのではないだろうか。
例えばだ、この記事の冒頭の1行を思い出して欲しい。
『5月も半ば、少し気は早いがもう少しで6月がやってくる。』である。
これは正に、当たり前のことだが、この月刊Sの、筆者の書き方となる。これを例えば架空の女性のようにと考えるのであれば・・・
【5月ももうすぐ後半戦、当たり前だけどもう少しで6月が来ちゃいますね】となる。
或いは
【ちょっと気が早いかもだけど、もうすぐそこまで6月がせまってますね。】でもいいかもしれない。
このたった1行でも、読み手に与える印象は全く異なるものとなるわけだ。これは単にモノマネということでは成立しない。いや、しないはずである。
モノマネを真剣にやってこそ成立すると筆者は考えている。
モノマネを真剣に?と多くの方は思うであろう。むしろ思って当然かもしれない。実をいうと筆者もその1人だったのだから。
この言葉は今から十年前に好きで読んでいたあるブロガーというか、当時はHPの管理人と言った方が正確かもしれないが、その方の言葉である。
その方自身も、ある小説からそのような考えになったそうなのだが、その人の解釈で書かれていたものであった。つまり、その人のオリジナルの考えと捉えて良いのだと思う。
内容はこうである。
確か仕事を始める社会人へ向けての言葉であったと記憶している。最初からできる人間は存在しないので、当然教育係という先輩から仕事を教わるのが普通であると。その際、できる先輩ほど所謂コツというものを添えて教えてくれる。
しかし、実際言われた通りにやっているはずが、そのコツというものを実践しているはずが、上手くいかないこともある。そうすると、必然的に何でこんなやり方なのかと不満に思うことが存在するというのだ。
確かに筆者も勝手にこうすれば良いのにと思うことがある。その考えが正しいことも実際あるのだが、そうしなきゃならない、そのやり方でなければならない、そういう知らないルールが存在するのも確かであり、その為そのようなやり方ではないといけないという事実が存在する場合がある。
それは安全面や品質面など、どうしてもめんどくさいがやらなければならない手順や段取りなどがあるわけだ。それを理解していないからこそ、不満が出るのである。
とにかく最初は言われた通り、正にコピーするかのように仕事をこなしていくものである。
そうモノマネである。それである程度仕事をこなしていけるのだが、所詮それまでだというのだ。そう所詮只のマネなのである。
しかし、真剣にモノマネすることにより、成長するとその方は語っていたのを今でも思い出す。
つまりこういう事だ。
真剣にモノマネをするとは、その行動或いは作業でもいいだろう。その意味を理解するということである。
何故この作業をするのか、何故このような順番で行動するのか、何の意味があるのか。何の為にそれをしているのか。
それを理解した時、意味を知った時、その行動や作業の価値を知ることになるのである。そして、その目的である本質を理解することにより、自分にあったやり方を見いだせると。
マネというコピーから自分というオリジナルになるというのである。
これは全ておいて言えるのではと筆者は思う。
何でも最初は何かしらマネからではないであろうか。憧れやうらやましさからマネをする。その人のようになりたいが為にマネをするものである。大概はそれで終わり、所謂二番煎じと称されてしまう。
だが、そのマネをモノマネを真剣に行うことにより、理解することにより、オリジナルを生み出せると。その人のオリジナルになるのではないのかと。そしてその方はこう記事を締めていた。
だからこそ、マネしていいと思うと。存分に真剣にマネしていくことで、必然的にそれはオリジナルに変わっていくと。
考え方や言葉に感銘を受け、それをマネて何かを発していたとしても、真剣にマネさえしていれば、全く同じになることはない。いつの間にかオリジナルとなり、そして新たにあなたに感銘を受けマネする人が現れるであろうと。
そうネットいう閉鎖した世界から語り掛けていたのだ。
この言葉は十年経った今でも筆者の中にあり、大きな影響を与え続けている。
その方はもうそのHPを閉鎖され、今何をしているか分らないが、恐らく何かしらオリジナルとして活躍されているはずである。
オリジナル。筆者も何か唯一無二のオリジナルとして存在しているのであろうか。そうなれる日がくるのであろうか。
そうなれるよう今日も真剣に織田裕二の顔マネをしながらブログ書いていこうと思うずっちーな嘘だけど。
誰かマネして記事を提供してくれませんかね?
著者:S
日本生まれ。10年ぶりにブログを始めたはがいいが、どうしたものかと感じている。書き方のパターンを変えながら模索している彼の本当の魅力はきっとこれからに違いない。と言われたい。ちなみにブログの記事の提供は既に閉鎖されたので、とっくにやめている。
ですね。