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いじめの正しい広め方

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もう何度も同じようなニュースを聞くわけで。


苦に・・・ていう言葉からの事件となるわけで。命の事件となるわけで。


そうなって初めて報道され、問題化され、何らかの動きが始まるわけで。


今現在進行形の人が居たとしても、そう認識してしまうわけで。


事件になれば、広まるんだと。加害者への思いを形にする手段なんだと。


でも、もう世の中は、そう言えばって感覚なわけで。


実際関わるところでは、少しは動きがあるのだろうけど、だろうけども。


本人亡き後、解決はあり得ないでしょ。あり得るわけないでしょ。遅いでしょ。

 


勝手な考えだけど、いじめは無くなることはないと思う。


人は必ず比較して生きてる。その中で良くも悪くも目立つ存在に対し、違いを感じる。


感じるだけで終われない。勝手な評価を始める。崇拝という方向に行けばセーフ。そうでなければアウト。


多数が正義。その中の異なる存在は多数の上に君臨するか、下に位置するか。何故か勝手に決めつけられる。誰の教えもないのに。本能なんだろうか知らないが、そんな感じだと思う。


そのくせ個性とか気にして、ルール内での変化を求める。でも、多数が同様にやるから結局多数。気づいてないみたいだけど。


本物の個性に嫉妬なのか、なんなのか。理由はわからないけど、起きるものは起きる。それにつきる。


事件になろうが、解決なんかしない。解決を求めてないというのなら、事件にしなくてもいいじゃない。


辛さという世界から逃れたいとしても、事件に、命を終わらせる事件に、しなくてもいいじゃない。生きたまま逃れようよ頼むから。


いじめる側が悪いのは事実。それ以外ない。いじめなければ起きないことなのだから。どちらにも原因とか正に他人事。原因とかじゃなくて、悪いことだと、しちゃいけないことだと、その認識の問題。それをできるかと、守れるかという問題。


大人の世界にもいじめはある。受け止め方なのか、周りが同世代だけではないからなのか、生きてきた経験値なのか、無くはないけど同様の事件になるケースは少ない。


生きたまま逃げる手段を可能にしてる。てことは、可能なはずだよ。道がないわけじゃないんだよ。手段がないわけじゃないんだよ。そう思う。


僕にはいじめにあっている人の痛みは分からない。分かるわけがない。そのくらい特殊で知られないことなんだよ。


だからこそ事件で知らせれてない証拠。なんとなく可哀そうとか酷いとかしか分かりえない。知ってもらえない。覚えててもらえない。


だから同じことが繰り返される。事件にすることで繰り返されていく負のスパイラル。そろそろ終わらせてくれないかな頼むから。


他の誰かならできるかもしれないけど、僕には救うことはできない。僕一人にはできない。そんな使えない奴が生きているんだよね。今この世の中に。ここに。


そんな使えない奴より先にとかやめて欲しい。ましてや、いじめてる側よりも先にとかもっとやめて欲しい。


生きるを続けて欲しい。使える奴を探して欲しい。できる奴を探して欲しい。その為にまず、いじめを広めとこ。事件にするくらいなら広めよう。生きる前提で。


じゃあどうやって広めようか。Twitter?Facebook?SNSじゃ無理かな?


いや、決めつけは良くないよね。やっとこ。ブログ立ち上げよ。無料でいいからはじめとこ。はてなでやりゃいいじゃん。☆くらいなら付けに行くし。


とにかく、生きてりゃいいよ。生きてなんぼだよほんとそう思う。


うまくいけば、できる奴が見てくれるよ聞いてくれるよ。僕なんかより100倍価値のある人達が力になってくれるよ。


うまくいかなくても生きてるじゃん。それで十分でしょ。休んでブログでいいでしょ。夜更かしブログでいいでしょ。


広める手助けくらいならできるかもね。ほんの少しくらいならできるかもね。この僕でもね。


無理かな。やっぱ無理かもね。僕は何にもできないかもね。本当に使えない奴かもね。


でも生きるは続けるけどね。


ブログも一応続けるけどね。


何の解決もしてないけどね。


でも、届いて欲しいけどね。


ですね。