『僕は知らなくてもいい』
知っても知らなくてもいい。僕は。何故ならおおよその答えを持っているから。反論の想定ができているから。それを確かめてみようか。そんな嫌な奴的思考から始まったんだと思う。お酒という味方を得て。
必要な人もいれば必要ない人も居る。という答えは誰だって想定できる。でも、それは僕の罠にハマった証。あえて反論できそうな雰囲気を出しつつ、でもよく考えると的な内容にしたつもりでした。
ところがどっこい、ガッチリ言及してきた方がいたんです。驚いて思わずかめはめ波出すとこでしたよ出せないけど。
そんなカメハメハではなくカメさん(id:tn198403s)なんです言及してくださったのは。
改めて言及ありがとうございました。となるとちゃんと書くしかないし、となればちゃんと収録しないといけないし…
言い訳はしません。前日にお酒吞みました。結構呑みました。声が、声が、でも録らないと、録らないと、さもないと
ヒデリンさん (id:hiderino-akihito)
では書きますか。
僕はそもそもこう考えていました。
知らず知らずに生きていれば何かしらがカウントされているわけです。意識的にも、無意識的にも。時間が必ず経過すればそれはもうカウントされているわけですよね?
昨日から今日、一昨日から今日、1日経過、2日経過、24時間経過、48時間経過。それこそ1秒単位でも。
そのカウントを各々が各々の思う捉え方をしているわけです。正の歴なのか負の歴なのか、それともどちらでもないのか。
その中で、各自が負の歴と思えるカウント、負の歴だと言えるカウントがあるならば、それはその人には必要ないことじゃないの?という考えなんです。
僕が例に出したたばこをやめて何年というカウントが必要か不必要かのジャッジではなく、そうこれが僕の
たばこをやめて何年というカウントを負の歴だと考える人、捉える人にとってはそのカウントは必要ないよねと。各々が負の歴のカウントと思えることがあるならば、そのカウントはその人にとっては必要ないよねと。そう言いたかったわけです。微妙に分かりづらくしてましたが、実はこれが僕の真の考えなんです。
となれば、必要ないと言えませんか?てなドヤ顔だったんです。そうだったんです。過去です。
過去とは言え、この根本的な考えは変わってはいません。ただ、カメさんの記事でふと考えることがあったんです。
正と負が簡単にひっくり返る話
(結構省略)
阪神・淡路大震災後27年
1995年1月17日に起きたことは変わらないけれど、今になって初めてわかることもあって、また、これまでの経過の中で積み重ねられてきたこともあって。
(中略)
それらのほとんどを知らない私が、震災を経験した友人に今年もその日が来たねと声をかけ、今年はこんなことがあったと教えてもらって。口が重い年もあれば、「あれは嬉しかった。」とちょっと元気に話してくれる年もあって。「あれから9886日経ったんだよ。」と数えただけでは伝わらないことがあって、でもカウントし続けているからこそわかることもあって、…と思うのです。
恐らく僕が震災(東日本大震災)の例を出したことに対してのアレかもしれませんが、この『カウントし続けているからこそわかることもあって』が僕の脳に響きました。※脳梗塞ではありません
カメさんはもしかしたら『僕の持つ答えに』気づいていたのかもしれませんが、やんわりと、少しずつ、僕の考えの硬さを柔らかくしようと提案するように語っています。こういう捉え方もあるのでは?と。正に大人ですよね。
Sさんが言うように「その出来事に対し受け止め方は変わるかもしれないけど、起きたことは変わらない」のはその通りだと思います。
その一方で、「起きたことは変わらないけど、その出来事に対し受け止め方は変わるかもしれない」のも事実だと思います。
その時から何年経ったかだけでなく、受け止め方がどう変化してきたのかも見ながらカウントするのもありじゃないかと思うのです。それを正と負、どちらの歴とするかは、カウントする人次第。正と負どちらでも、出来事との時間や距離に強い思いがあれば、カウントを続ける意味はあると思うのです。
そうなんです。その人次第なんです。この時点で気づかれてたのかもしれませんね。僕のおかしな問いに。いるいらないは人ぞれぞれでしょと笑
意味があってカウントする場合、正の歴のカウントと負の歴のカウントの別はあるかも知れません。でも、受け止め方で正と負の入れ替わりが起きるなら、負の歴を正の歴に変えることもできそうです。
自分で変えることができなくても、カウントし続ける内に正の歴に転換することもあるわけで、意味がありそうなら正でも負でも、ひとまずカウントするのもありと思いたいです。
ここまで来ると、もう僕より先に今の僕の考えに到達しているのかもしれないとか思いました。ただ、僕の考えは絶対でもなく、それこそ正解でもないのでアレなのですが。このカメさんの記事のおかげで僕はこう結論することにしました。
そもそも人は起こりうるカウントに正も、負も、そしてそれ以外の要素を最初から持っているのではないか?そして持ち続けているのではないかと。カウントし続けているのではないかと。全て同時進行でと。
例えば、僕はたばこをやめて何年というカウントは負の歴のカウントと捉えています。今も変わりません。でも実は、同時に何らかの正の歴のカウントとしても捉えているのではないか。それこそどちらでもないカウントとしても捉えているのではないかと。えっと通じてますか?
たばこをやめて10年と仮定します。
やめて10年というカウントはどちらでもないカウントです。言うなれば事実です。と同時に僕の「10年も気にしていたのか」という負の歴のカウントが存在するわけです。そしてさらに実は「10年も禁煙してきたんだ凄いな」という正の歴のカウントも存在しているはずなんです。
考えが生まれたというよりカウントしていたからこそと捉えれば、ずっと存在していたのではと思うのです。ただ、その考えに気づかない或いは気づいてたとしても認めないというか選ばないだけでとか。
流石に僕でも10年と知ったらその考えは浮かびます。であれば、僕の中で正の歴のカウントにすることもできます。というか僕ならする気がします笑
てことは、そうです負の歴のカウントではなくなるわけですので、必要なカウントとなります。負の歴のカウントと捉えてた時の禁煙期間は必要のないカウントだけど、正の歴のカウントと捉えることになれば、禁煙期間は必要なカウントとなるわけです。或いはどちらでもないただのカウントになるのかもしれませんが。
僕のそもそもの考えである負の歴のカウントは必要ないは変わらないです。というか、負の歴のカウントという考え方が必要ないという表現の方が正解なのかもしれません。
カメさんが仰ってた正と負が転換することもあると。でもそれは変わったのは捉え方で、カウントとしてはずっと継続していると。正と負は同時に。その時の状態や環境で、どちらかを強く捉えてしまうのかもしれないと。であったとしても、負と捉えることは必要ないのではないかと。負の歴という考えを選択する必要はないのではないかと。悪い考えはやめなよと。必要ないよと。そんな感じなのかもしれませんね。
まぁ~ずばりアレですよアレ
お前の正の歴、負の歴の考え自体が不要なんじゃね?
(突き刺さるぅーーーー‼)
そもそもの僕の考えが不要ってことでしたね。あはははははは(号泣
カメさんはじめ皆さん無駄に脳みそ遣わせてしまい申し訳ありません。少しはシワでました?(オイ
考えは表裏あるんですかね。同時進行で今も尚存在しているんですかね。深層心理では。とか。であれば、負の方を選択しない精神を保てるようにするべきなんですかね。
それとも負だからこそ必要と思えることがあるんでしょうかね。いや、あるんだろうな。つか、あると思ってきました笑
カメさんのブログテーマでもある
「人生に無意味な時間は無い。ただ、その時間の意味を感じることなく生きているだけである。」
とは言え、この世は負の感情のおかげで進化してきたわけですし、負の感情というのは必要不可欠なんですよね。きっと。あとはその負とどう付き合うか、向き合うかなんでしょうけど。
まっそれが一番難しいでしょうけどね。
今も尚何らかのカウントがされている。それをどう捉えるかで同じ出来事が変化する。嫌な事にも素敵なことにも。そうさせるのは、その時のその人次第。その人の置かれた状況や環境で変化するのかな?それはカウントしているからこそなのかな?なんだろうなきっと。
もしかしたら、僕らは何か試されているのかもしれませんね。
誰に。何のために。
あなたは、あなたなら、どう思いますか?僕は…
知らなくてもいいけどね←
ですね。