今週のお題「おとうさん」
本来なら思い出を書くのだろうけど。けれども。
やはり言わずにはいられない母の日との格差。
家族の基本経済面での貢献度から言えば、間違いなく父親なのだが。そのやりくりの方が重要と判断されるのか父親の威厳は確実に低い。
特に家族内の女性率が高ければ高いほどそのような気がするがどうだろうか。関係ないのだろうか。
だとすれば、何故にそこまでの格差が生まれてしまうのだろうか。
今じゃフラーリマンなるものまで誕生し、家にすら帰りたがらない。どこに安らぎを求めているのかと、他人事ながら心配にもなる。
そんなフラリーマン化した世の父親達が唯一フィーチャーされる日であるはずなのに。あっていいはずなのに。
とは言え、世の中には全く当てはまらない幸せの象徴的な父親達も居るだろう。いて当たり前であろう。
だが、何故かそういう父親の幸せ感が漂う話はあまり表面化されず、不幸感漂う方が大きく取り扱われてしまう。サラリーマン川柳なんかが良い例であろう。
一体何故なのだろうか。まさか単純に嫉妬という感情で起きているのではないだろうか。
あくまでも仮定なのだが・・・
世の仕事はまだまだ男性が中心に存在している。そうじゃないにしても多数を占めるのは男性だ。
そんな男性達から見て、幸せそうな家族団らんな同性に対し、あまり好意を頂かないのではないだろうか。
それは一種の出世競争に似た感覚で、負けた感を強く受けてしまうのではないだろうか。
それに対しての怒りという感情が、妬みという感情が、父親の日のイメージを記憶させないのではないだろうか。
だとしたら本当に恐ろしいことだと思う。
そもそも結婚すらしていない人口も多いわけで、なお一層の負け組的感情を勝手に一方的に巻き起こし、家族という成功者達の小さなほころびを、これでもかとほじくり返し、切り裂き、引きちぎり、メッタメッタのけっちょんけっちょんにしてやろうと思っての事なのではないだろうか。
と、ここまで書いてきたが、本気で思っていないからこそ書いているのだが、本当だとしたらどうしようという思いが沸き起こってきた。
切なすぎる。
これも勝手な主観なのだが、母親もそうであろうが、父親の方が特にそうだと思うのだが、ここ一番という時にこそその存在感を出すような気がする。そして、あまりいいことではないのだが、もう会えないようなことになった場合もそうだと思う。
勝手になのだが。
結局、最後の最後には認めざるを得ない。その存在を。その凄さを。その威厳を。
そういうことなのだろうか。
だとしたら、だとすれば、尚更切なすぎる。切なすぎるよ。
どのくらい切ないかというと、驚くほどこれといって浮かんでこないわけで、一体何をこんなに時間を割いてまで考えているのかと、若干他人事のようにすかしてみたがそれすら何の意味をも持たないことに気づいてしまい、信じられないくらい地団駄。本当に地団駄。くっそーとか小さく吐き捨てながら地団駄。もう穴が開くのかと思うくらい、正にCRY。いや上手いこと言ったとかは二の次で地団駄。本当は両腕を折り曲げて伸ばすの繰り返しの方が多いけど地団駄と表記した。そんくらい許してよ損CRY。最終的にCRYの方がお気に入り。
とにかくだ。
確実に理解したことは、父親の威厳がどうのこうのよりもどのくらい、どのCRY的なくだらない言葉遊びの方が僕は興味があるという事。
それを再認識したわけで、要するに興味がない。
その日が父の日。
ですね。(切ねぇー!!