人は言い訳をする。他人に対して、そして自分に対しても。
言い訳をしないという人や、言い訳をしているのを見たことがないと言われる人も、きっと心の中で自分に対してしてるのではないのかと、そう思っている。
僕の思う他人に対しての言い訳ランキング1位ワードは『価値観の違い』
言い訳という括りだけでこう言い切れないかもしれないとも今なら思う。
言い訳と言えば、他人のせいにするとか、何かのせいにするなどが思い浮かぶわけだけど、人間関係という中ではコレなのかなと。あの日の僕は考えたと思う。それを尊重してあげたい。
つまりこれから偉そうに書いていくのは、人間関係での話という基本設定でのことにしたい。
あの日の僕を救いたいと思う、今の僕が考えた僕の中の最高のアイラブ僕な取り決めだ。
そんな話はどうでも良くて
ガタガタ言わず行こうぜ←
『価値観の違い』
最近はあまり見かけないが、昔は離婚会見なんかで良く聞いた気がする。身近な人達の交際の破局でも必ず出てくる言葉だった。今でも恋愛関係で聞くことが多いと思うのだけど。
価値観が違い過ぎて無理。価値観が合わない。そんな価値観の違いで別れる。
そもそも価値観が同じ人など居ないと考えている僕としては、今更なんなんだと思っちゃうんだけど。お互いの価値観を尊重したけど、理解したつもりだったけど、やはり受け入れれないものがあったということなのかなと。
そう思ってあげることにした僕優しい。優しいと感じるかどうかも価値観の問題ではあるのだけども、そんな話はどうでも良くて※←
※通常文字サイズ文章内発生version
とにかく別れの原因は価値観の違いということになるわけだ。ね?じゃあ~仕方がないのかなと思ってしまう魔法の言葉それが『価値観の違い』
他人に対しての言い訳効果は絶大なはず。言い訳ベスト1は流石なわけだ。でしょ?
じゃあ~僕の中の自分に対しての言い訳ランキング1位ワードは何かと言えばそうです『運命』
言い訳というよりも言い聞かせるという感じで自分で自分自身に納得させるのに必要な言葉のような気がする。その中でも運命は断トツだと思う。
運命の人と巡り合えたなどと、自分の行動へのサポートに使うこともあれば。
運命だったんだよと何かに責任を押し付けたいときに使うこともある。運命のせいにできれば仕方がないって思えるでしょ?違うかな?
人は何かのせいにしたい生き物のはず。だからこそ、何か理由があって初めて納得できる気がする。でしょ?
それは何でも良いってわけではないのだけど、無いよりは確実にあった方が良いわけで、その中で運命となれば信じようが信じてなかろうが、何となくそうかなと、仕方ないかなと、そう思えるようになる。
と思う。そんな魔法の言葉『運命』
この2つの僕の中の言い訳ランキング1位同士は密接な関係にあると思っている。えっと僕がだ。
何を運命と思うのかは個々で違うはず。となればそれに影響を及ぼすのが個々の価値観というわけ。まっ当たり前かなと思うのだけど。
何気ない出来事を運命と思えるか否か。突然なんだけどね、ついてきてね。
起きた出来事を、正に奇数と偶数のように、1つ違えば、1つ変われば、奇跡にも偶然にも捉え方は変わってしまうものとすれば、その基準は全て個々の価値観ということですよね?僕はそう思うんですけどね。
ただ世の中には、1つの出来事を多くの人達が奇跡と感じることがあるわけですよ。逆に偶然と感じることがあるわけですよ。
ってことはですよ。価値観には共通項があるってことですよね。同じ部分があることもあるってことですよね。強引かもですけど。つまり、価値観が全く違う人などいないのかもしれないってことですよね。ね?
とは言え、そうとは言え、価値観は変化するはずですよ。そもそも価値観とは個々の人生での経験が影響しているんじゃないかって思うんですよ。そう僕はね。
極論を言えば、同じ経験をすれば同じ価値観になっても不思議じゃないと思うんですよね。何に影響を受けてきたかで変化すると思うんですよね価値観って。
だからその影響というモノを洗脳のように多くの人に対して与えれば、同じ価値観に統一できてしまう、統一されてしまうこともあると思うんですよ。どっかの信仰団体みたいに。
ちょっとうまく言えないんだけど、価値観とは影響を受けやすいモノなんだろうなと。それを決めるのは自分なんだろうけども、その決める基準はそれまで生きてきた経験からなる価値観なんだろうなと。そう思うんですよね。
まぁ~なんか何を言ってるのか訳分からなくなりかけてしまうけどね、そういうことなんだと思うんですよ。はい。
運命と思った相手と価値観が違うと別れてしまう。
矛盾のように感じるけど、きっと価値観が変化したって思えば、個人的には納得はできるかな~と。
でも、卵か先か、鶏が先かではないけども。運命が先か、価値観が先かなんて考えもしてしまうんだけどね。追及したいわけではないのだけどね。理解しきりたいみたいなね。あるよねそういうの。まぁ~これも僕の価値観なんだろうけどさ(笑)
ちょっと戻るかもしれないけどね。運命と感じるのは価値観だとして、その価値観は経験から生まれるのであればね、価値観てモノが形成されていなければ、運命と感じることはないのかなと。我ながらめんどくせーこと考えてたなと思うのだけどね(笑)続けるけどね。
確かに、ある程度の経験というか、前情報という知識がなければ起きた出来事に対してすぐ運命と捉えないかもしれないよね。運命という概念すら知らなければさ。ね?
だから何だコレ?と驚いた時に、それは運命だよと教えてあげるわけじゃない?普通といって良いのかアレだけど。ね?それで運命という経験を持って少なからず価値観が生まれるわけじゃない。ね?
でもさ、この何だコレ?て驚くという感情というか感覚はあるってことはさ。単に運命の知識を知らないだけで、特殊なものだと感じる力は元々あるのかもしれないってことだよね。特殊だと感じれる価値観があったからだよねって過去の僕が言うわけ。それに今洗脳されてるわけ今の僕は(笑)
つまり、運命という名前を知らないだけで、そもそもは特殊と思える価値観から始まるわけで、言うなれば価値観からの運命と。そういうことなのかもしれないのかなと。あの日の僕は思ってたみたい。今の僕はただただ驚いてるだけなんだけど(笑)いやマジで。
まぁ~あの日の僕の考えてたことが正しいとすると、奇跡的な〇〇や、神秘的な〇〇ってのも、きっと価値観がもたらす産物なのかもしれないのかなと。そう言えるのかもね。
でそれが何なの?って今の僕は思うわけ(笑)
あの日の僕って何だか寂しい人間だったんだな~て思う。もしかしたらというか確実に今の僕も。いや泣いてないから。
きっと、いや間違いなく、こんなことを考えるという事自体が必要がないことで、答え的な追及も意味がないことなのかもしれない。意味を見出せるとも思えない。
まぁ~何かを知りたいという思いってのは悪い事ではないのだろうけど、必ずしもその先に幸福感があるわけではないということなのかな~と。何かの達成感的なモノを得れるわけではないのかな~と。切なくなるね。コレね。
でもこれこそが、僕の、僕なりの価値観なので仕方ないんだろうね。
そしてコレをブログというモノで発信するという運命なのかもしれない。しかもそれをリライトしてまで再発信しようとするのも運命としか言いようがないかもしれないね。もうね。
だからコレを読んでしまった皆さんはきっと、正にそういう運命だったのかもしれませんね。
ただ、そう思える価値観があればの話ですけどね。
このブログを読んだことがあなたにとって偶然なのか、はたまた奇跡なのか、あなたの価値観はどっちを選ぶんでしょうね。
たぶん・・・
選ばないという選択でしょうね。
そういう価値観でしょうね。
だって全然うんめぇ~こと書いてないからね。
ダジャレの価値観も終わってるね
ですね。