いや、たぶんでしか言えないが、そんな言葉はない。はず。あったらそれはそれで。そんな感じ。
生きてきた中で何かしらのらしさを求められてきた。今の今まで。そう今も尚。
子供らしさから始まり、男らしさへと変わり、社会人らしさという曖昧なものへとなり、上司らしさを求められている。もちろんSさんらしさも。
それぞれの環境でのそれぞれのポジションを無意識に求められている。気がする。
それに気づいた時、疲れを感じてしまう自分がいる。気づかなければ良かったのにね。気づいちゃったよ。
過去のコラボラジオで影響を受けるのが意外と言われたことがある。影響は受けるけど自分で処理するとは答えたが、その処理にかかる時間は早くはない。それだけ影響し続けているということになる。
今の影響の根源は書くのも嫌なコロナの野郎だと思う。そりゃそうだよね、色んなことが変わったんだから。
ブログの記事を書けないというか書きたくないなと思うのもその影響だったりする。言い訳だけど。でもそうなんだよね。
結局何かしらコロナに関わることを書いてしまう浮かんでしまう。それが何か嫌だというか悔しいというか。何か違うとか思っちゃう。仕方ないことなんだろうけど。らしさを求められてるからこそ、らしくないことを書きたくないとか。そう思っちゃったり。
でも実のところ、僕らしさって何?そんな感情もある。だって全部僕なんだから。どれもこれも嘘ではなく僕なのだから。
であれば何を書いてもらしさになるんじゃないの?って考えもある。正直よく分からない。分かりたくないのかも。
小学3年か4年か、男らしさを求められ涙を捨てていた時の話。
電車だとは思うのだけど母親と並んで座っていた。ベンチシートってヤツに。
車内はまあまあ混んでたと思う。少し経つと僕の前におばあちゃんが立っていることに気づいた。と同時に母親から「席を譲りなさい」と言われた。指図された。命令された。この僕に。この俺様に。そうあの時の僕の脳内では結論された。
となれば僕は頑なに譲りたくない衝動にかられた。何人も座らせねーそんな感情になった。はっきりと今思い出した。
当然母親は驚き以上に怒りとなり僕に催促してきた。「早く譲りなさい」と。小声調の大声で。怒ってます全開で。
でも僕は譲らなかった。「だったらお母さんが譲ればいいでしょ」言ってやった。「何で僕だけしなきゃならないの」と続けて。
子供らしさへの抵抗だった。僕にも意思は意志はある。子供でも疲れてるんだと。座って居たいんだと。
母親はあとあと愚痴っていたらしい。嫌だったのかな酷いことしちゃったなって。
という話をこの前という出だしで伯母から聞いた。電話で。ついさっき。
3/6 AM0:50クソがっ
この前って。相変わらずタイムトラベルしてるようだ。認知症って大変だな。ある意味認知症らしさなのかもしれないけどね。
『ちゃんと子供らしくするのよ』そう言って電話は切れた。認知になってもハラスメントをしてくるとは中々だな伯母。
ボケようが正常だろうが、僕にらしさを求めてくるめんどくさい血筋なんだろう。それが血筋らしさと言えばらしさかもしれない。
その血が半分は流れている僕も、きっと、らしハラ(らしさハラスメント)をしてしまうかもしれない。
それこそが僕らしさなのかもしれない。
であれば、仕方がない。そうするしかない。言うしかない。
読者らしく僕に優しくしてね
この強引な終わり方も僕らしさ?
ですね。