中学2年から、僕の中には存在している。
夢は叶わぬモノ。
夢はいつか叶う。強く思えば叶う。努力すれば必ず叶う。
そんな言葉をスタンダードにしている方には申しわけないが、僕はそうは思わない。
何か衝撃的なことがあったわけではない。僕の中の少ない経験値が生み出した答えがソレなのだ。
その答えは、僕という成長した今でも存在し、揺るぐことはない。
勘違いして欲しくないのは、あくまでもこれは僕の答えであり、正解ではない。もちろん不正解でもないわけだ。
当時の僕から現在の僕まで、幾度と考え解いた答えがコレということだ。コレが正解かどうかはまだ答え合せができていない。
いや、答え合せなどしないかもしれない。答えを導いたことで、僕は満足しているからだ。
そしてこの答えは、今は揺るぐことはないと思ってはいるが、変わる可能性も、もちろん変わらない可能性も、未だ秘めている。
僕はこう思う。
夢を持った瞬間から、人はそれに向け努力する人も居れば、何もしない人も居る。
当然何もしない人は、その段階で叶わないと言える。
努力した人は、個人差があるだろうが、いずれその夢に近づける、そんな人がいる。
当然、近づけなかった人は叶わないと言えるだろう。
近づけた人は、その夢は、すでに夢ではなく、目標或いは目的に変化すると僕は考える。
そして変化したと同時に、新たに夢が生まれている。そう思う。
だから夢は叶わない。常に夢を追いかける。それが僕の考えだ。僕のスタンダードなんだ。
夢と置いていたものが叶うのであれば、夢が叶ったと言っていいのではないかと、そう疑問に思う人も居るだろう。
でも僕はそうは思わない。いや思いたくない。
夢は叶わないモノと、届かないモノと、追いかけるモノと、常に目指すべきモノと、そう思いたいからだ。
ポジティブが嫌いなわけではない。寧ろその方が良いと思う事の方が多い。
ただ、この夢というものに関しては、甘過ぎるのは、甘やかすのは、誰の得にもならないと、そう思ってしまう。
取り組む過程では、励みというか、やる気というか、モチベーションの向上或いは維持にはいいだろうが
いいだろうが、その後の落差の方が大きいような気がする。叶わぬモノとなった時の衝撃という痛みの大きさがだ。
僕はそれから逃げたいと考えているのかもしれない。とはいえ、やる前からどうのこうのと逃げ腰にというわけではない。
やはり、覚悟を持った者のみ、夢を語り、夢に挑むべきであり、叶わぬ場合も受け入れられるのではと、そう思う。からなのだが・・・。
安易に夢を語るのが悪いことではない。寧ろ今の時代、夢を語れる方が貴重であり、素晴らしいとさえ言えると思う。
でも、安易すぎるが故の、叶わぬ際の痛みを、涙を、僕は見たくはない。
覚悟を決め、挑み、敗れた涙であれば別だと、そう僕は思ってしまう。意外とスポーツマンみたいだ僕は。
夢は必ず叶う。
そんな言葉を聞いたなら、じゃあ、高校球児は全員甲子園で優勝できるね。とか。全員世界新記録で優勝だね。とか。全世界の国がワールドカップ優勝だね。とか。
子供のような発想だったのかもしれない。僕のスタンダードの原点は。
ただ、今思えば、全員が甲子園で優勝と夢を抱くのか、全員が世界新記録で優勝と考えるのか、全世界の国民がワールドカップ優勝を望むのか、そんな疑問が沸き起こる。
夢すら持っていない人々が多く存在しているのかもしれない。或いは大きな夢を持とうなどと思わないのかもしれない。
だから、夢は持ってこそで、持とうと思う人は努力する人で、叶う確率の高い人ということになるのだろうか。
いやでもだ、かといって必ずしも叶うわけではない。だからこそ、勝敗があり、勝利した者の価値ができ、取り組んできたことへの価値も生まれる。
もちろん敗れたとはいえ、そのステージまでの道のり全ては価値があるものだろう。それを否定したいわけではない。
夢は常に抱くモノ。そういう意味をもった夢は叶わぬモノという考えが、僕はしっくりくるのだが。
まぁ、あくまでも僕のしっくり感での話なのだが。
あなたはどう思いますか?
夢をどう捉えていますか?
考えてもいいとは思いますけど
夢をもってからね
ですね。