カランコロン
『いらっしゃい。あっども。お連れの方はまだみたいですよ』
マスターに眉毛で返事をし、傘を店頭の傘入れに入れた。そのまま当たり前のように店(bar)の奥にある大きな古時計の前の席に座る。テーブルの上には予約席と書かれたカメレオンのオブジェが置かれていた。
『いやな雨ですよね~。やっと暖かくなったと思ったら…。桜、いつまで咲きますかね~。去年より終わるの早いかな~』
片手でカメレオンのオブジェを持ちながら話しかけてくるマスター。席についた僕に必ず桜の話題をしてくる。もうこの関係が10年も続いている。
10年…もう10年なのか。
初めて来た日は今日よりもヒドイ雨の日だった。天気予報では晴れだったのに、今でもたまにあるだろうが当時はゲリラ豪雨が頻繁に起きていた。
カランコロン
『いらっしゃい。何名様で?』
『お一人様ですか…カウンターいっぱいですのでテーブル席になります。ただ、相席をお願いする場合もありますがいかがいたしますか?』
二つ返事でOKした僕は、店の奥にある大きな古時計の前の席に案内された。
『すみませんね、本当はこの時計取っ払えばもう少し広くなるんですがね。親父の形見なもんで。あっどうぞ、これで拭いてください風邪引きますから。』
腰が低くく愛想の良いマスター。ただそれは話し出せばの話で、無言でいる様は殺し屋かと思わせるほど鋭い目付きをしている。
その殺し屋顔が赤ん坊をあやすかのように一瞬でクシャっと笑顔になり話し出す。最初こそ違和感があったが、今ではこのギャップが病み付きなってしまう。というのはこの店の常連客の合言葉のようなものだった。
「じゃあビールで。あと、オススメあればそれでお願いします。」
『えっと、おつまみ的な感じで宜しいですか?そうだな~当店オススメの…』
カランコロン
新規の客の宿命とまで言われているマスターのうんちく地獄こと、店イチオシの牡蠣のアヒージョの説明をぶった斬るかのように店の扉が開いた。
『あ~相席でしたらお席ありますがどうなさいますか?』
言い終わったマスターが舞い戻ってきた。
『牡蠣のアヒージョで宜しいですか?』
正直返事をしたのか、頷いただけなのか今でも思い出せない。ただ1つ、僕の目の前に座って濡れた髪をタオルで拭いている女性の照れ笑いだけが記憶の全てを占領していた。
「雨凄いですよね」
確かそんな言葉からだったと思う。
お互いがこの店に初めて来たこと。雨宿りのつもりで来たこと。前からこの店が気になっていたこと。お酒が好きなこと。お気に入りの飲み屋が実は同じだったこと。歳の差が2歳なこと。
まるで長年の友人との再会かのように、とどまることなく話続けた。連絡先を交換することに、何の躊躇もなかった。
それから頻繁に会うようになった。最初こそメールや電話などしていたが、毎回終わりのないメールや長電話になることから会った方が早いねと。僕の思っていたことを彼女の方から提案してくれたことで勢いがついた。
毎月から毎週。そして毎日。付き合うことはもう必然だった。何回目かのデートで彼女が言った。
「あのお店で1周年記念やろうよ」
付き合って1周年。1周年どころか毎年だってかまわない。僕たちを引き合わせてくれたあのお店で、あのbarで、あの大きな古時計の前の席で、お祝いをするんだ。し続けるんだ。ずっと。
そう思っていた。
そうなるものだと信じていた。
1周年記念日。桜の咲く季節。僕は約束通りこの店にいた。今と同じこの席で。約束の時間は初めてこの店で会った時と同じ21時。同じように僕が先に着いていた。天気は今日のような雨だった。
ブーブーブー
マナーモードなのにそのバイブ機能の音が聞こえるというなんともな瞬間。
パカッと開けるケータイ。当時の僕の携帯電話。当時はスマホの普及はまだまだだった。手慣れた手つきで片手でケータイを開け中を確認。メールを受信していた。
《待っててね、今行くから。》
急ぐ彼女が想像できた。大丈夫だから気をつけてと返信しケータイを閉じた。既読機能などないメール。届いて見ているものと。そう信じていた。信じて疑わなかった。今も。今でも。
彼女は来なかった。
メールをした。電話をした。何度も何度も。連絡がとれず待ちきれず彼女の家に行った。でも、彼女に会えなかった。会えることはできなかった。
彼女に会えたのは、次の日だった。
「あなただったのね。」
やっと巡り会えたと言わんばかりに僕の両袖をつかみながら話す女性。真っ直ぐ僕の目を見つめながら話す女性。こぼれ落ちる涙などお構いなしに何度も何度もそう言っていた。
交通事故だった。
信号の切り替わり間際だったらしい。歩道が赤になるのが早かったのか、車道の信号機が青を照らすのが早かったのか、雨が悪さしたとか、そんなことはどうでも良かった。
事故でこの世に彼女がいない。もういない。もう会えない。会えないんだ。
彼女は僕のことを楽しそうに母親であるその女性に話していたそうだ。ちょっとおっちょこちょいなこと。すぐカッコつけること。運動が得意なこと。ロマンチックなこと。お酒が好きなこと。自分(彼女)を好きなこと。それより何倍も僕のことを好きなこと。隠さず全部話していたらしい。
「今度1周年記念だから、そのあと1回会ってもらっていい?」と話したのが最後の会話だったらしい。
「あなたの言ってた通りの人ね」
そう言って動かない彼女の頬をなでた母親の顔が途中から滲んで確認することはできなくなった。
「いいのよ」
母親の許しで僕は泣いた。声をあげて泣いた。全ての鬱憤を吐き出すように大声で泣いた。泣くしかなかった。
それから僕は狂ったように仕事をした。疲れてようが、眠かろうが、休むことなく仕事にのめり込んだ。
そうするしかなかった。そうでもしないと、本当におかしくなりそうだったからだ。親戚が多かった僕は、人より多く人の死というものに携わってきた。そう思ってた。
でも、そんな経験など何の意味もなかった。当たり前の日常から当たり前を取られた。取り上げられた。それは日常であって日常じゃない。日常じゃないんだ。
そんな非日常のような毎日を過ごしていた。
あの日まで。
ブーブーブー
僕は絶句した。何で?
《待っててね、今行くから》
差出人はあかり。そう紛れもなく彼女からだった。
あの事故から2年後の命日だった。同時にそれは僕たちの記念日でもあった。
嘘だろ!?何度も何度も叫んだ。でもそれは怒りではなかった。分かってる。分かってる。けど。あかり…。
僕はあの店に、あのbarに、電話をし予約をした。21時から2名と。
その日から毎年同じようにメールが来る。もうLINEが主流になりつつある今でも。
そして今日もその日から10回目の記念日だ。そのために僕はこの店に、このbarに来たんだ。あかりに会うために。
『起きて下さい。起きて下さい。』
優しい声と共に背中を心地よく叩かれ僕は目を覚ました。
『呆れて帰られましたよお連れさん』
毎年僕は同じように深酒をし、同じようにマスターに起こされる。
帰った…か…
「マスターお会計」
『あいよ』
そう言って振り向こうとしたマスターを呼び止めるように、僕は少し大きめの声で言った。
「あっそれと、もういいから。もう大丈夫だから。」
少し不思議そうに僕を見つめ返すマスター。何かを悟ったように視線をはずし、ゆっくりと後ろを向いた。
僕は知っていた。毎年送られてくるメールの送信者がマスターだということを。
初めてメールが来たときはさすがに気が動転したが、次の年も来た時にあかりの母親に会いに行った。
てっきり母親がメールをしてくれているものだとばかり思っていた僕は、真実を聞かされ衝撃を受けた。
「あなたが本当にダメになってしまうって」
狂うように仕事をしていた僕を見かねて、マスターが母親を訪ねてきたらしい。
「何か形見を頂けないかって。店に飾って少しでもあなたをちゃんと向き合わせたいって。無理ならせめてこの店に居るときだけは思わせてあげたいって。あかりと会わせてあげたいって。きっとあなたは会えなかったことを引きずってるからって。」
最初は当然断っていたらしいのだが、真剣な思いに根負けしたらしい。それであかりのケータイを。
「ごめんなさいね。でも、私もあなたが心配で…」
言い終わる前に母親は泣いた。つられて僕も泣いた。
僕は知っていた。メールの正体をずっと知っていたんだ。でも、それでも、待ちたかったんだ。あかりを。あり得ない話だけど、もしかしたらとか。本当に僕は引きずっていたんだと思う。
毎年の楽しみにもなっていたのも事実だった。春になれば、桜が咲けば、またあかりのことを思い出せると。
でもそれは、逃げていただけだった。なにも進んでいない。止まっていただけだった。もう十分だ。楽しかった。前に進める。そんな思いでマスターに告げる決心をしたんだ。
「マスターここ置いとくから。お釣りはいいから」
カランコロン
精算するマスターの背中に声をかけ僕は店を出た。
『あっちょっ…』
店の扉がマスターの声を遮断した。
外はすっかり雨があがり、申し訳なさそうに月が顔をのぞかせていた。
じゃあな、あかり。
ブーブーブー
月に話しかけていた僕のスマートフォンが鳴った。送信者はあかり。きっとお別れの言葉でも書かれていることだろう。
マスター…最後まで流石だな
感心しながらメールを見た。
《毎回全然足りないんだけど、いい加減払って下さい。今までの分も》
マスター…
僕は全速力で走った。
じゃあな、マスター。
ー化げに行く
ーばげにいく
ーばげにいく
ーばげにいく くいにげばー
くいにげばー
食い逃げbar
ですね。
※このクソみたいな物語はフィクションです。